そういえばキレが(あとキルも)プーの名前を呼ぶ事を、今もって想像できません。
あの二人はお互いを呼ぶ時くらいしか人の固有名詞を使ってない気が。(…なんかこう書くぶらこん兄弟みたいだ……いや、うちでは逆なんですが)
本文は『続き』からどうぞ。
「おーい、541ばーん。ちょっとカード付き合え……っと」
トランプ片手に覗き窓と併せて開いた口を、慌てて閉じた。
扉の向こうのベッドの上に模範囚が転がっていた。
小さな換気窓から差し込む光が丁度彼のベッドの上に陽だまりの輪を作っている。その輪の中に納まった彼は起き上がる気配を見せない。
折角カモにしてやろうと思ったのにな―――行き場のなくなったトランプを弄び、毒づいた。
突けば勿論起きるだろう。マジックハンドでちょいちょいと囚人服を引っ張れば、むにゃむにゃ言いながら身を起こすはずだ。
緑の瞳をぼんやりさせ「あ~……カンシュコフさん、おはよーございます」と寝ぼけながら言うであろう事が想像に容易い。頭の回転がすっきりしていない相手ならゲームも簡単に勝てる。退屈しのぎにはもってこいだ。
そう思う、が。
わざわざゲームのために、起こす必要はないか。
光の中浮かぶその幸せそうな寝顔に気がそがれてしまい、本来の目的を溜息一つで諦めた。
寝相が悪い彼らしく、シーツは横に跳ね飛ばされてしまい、穏やかに上下する胸が見える。静かな空間に、薄く開いた唇から漏れるすうすうという寝息すら聞き取れる。手足を引き寄せて胎児のように眠る姿は窮屈そうに見えるが、緩みきった頬はどこまでも心地良さそうだ。
今日は隣にあの凶悪無比な死刑囚が居ない―――牧師の説教を受けに呼ばれていった。聞きもしない説教を受けさせる位ならさっさと処刑しちまえ―――から、気も緩んだのだろうか。普段から陽気に振舞っているが、あんなのと一緒ではストレスも溜まるだろう。一番被害にあっている自分はなんといったって、胃痛にまでなってしまったのだから。
今日くらいはゆっくり寝させてやろう―――珍しく嘘偽りなくそんな気持ちになった。
同じ相手に悩ませられる者通し、親近感が湧いたのかもしれない。
ゲームには休憩室で暇をしている、むさい同僚でも誘うか。
そう思って踵を返そうとしたが、体が扉の前から離れない。目が、扉の向こうから離せられない。
起こすつもりはないのに、その瞼が開けば良い、と思った。
「……541番」
ここでの彼を示す名を、呼んでみる。が、すぐにこれは違うと判じた。
「模範囚」
看守である自分にとっての、彼の代名詞を呼んでみる。否、これもしっくりこない。
「…………プーチン」
滅多に呼ぶことのない、呼ぶ必要のない、本当の名前を呼んでみる。
……何か無性に恥ずかしかったが、言いなおすことはしなかった。
これが、彼の名だ。
「プーチン」
可哀想なプーチン。
大したことのない、ほんの些細な失敗でこんな塵の掃き溜めみたいな所に追いやられてしまって。
本当ならずっと縁のないこの場所で、無為な時間を送ることになってしまって。
「プーチン」
気の毒なプーチン。
外で陽の光を浴びることも出来ず、大地を蹴って走ることも出来ず、檻の中に居続けないとけないなんて。
楽しそうに踊れば突かれ、大きな声で歌えば怒られ、幸せそうに笑えば文句を言われるなんて。
ベッドの上に出来た小さな陽だまりしか、居場所が無いなんて。
「プーチン、お前は」
ここに居るべきではない。在るべき場所はそんな小さな陽だまりではなく、溢れる光の袂だ。
薄暗く日の当たらない、こんな場所で存在してはいけない。
でも。
「プーチン、俺はな」
ここにお前が来てくれて良かったと思うんだ。
お前がここから出る日が来なければ良いのにと思うんだ。
小さな陽だまりの中、寂しく一人ぼっちでお前が居る事にほっとしてるんだ。
ここで誰もお前の名前を呼ばない事が、ここで他の誰もお前を必要としていない事が、嬉しくて仕方ないんだ。
―――そうすれば、扉の前に立つ自分の事は味方だと思ってくれるだろ?
名前すら、まともに呼べないこの想いを。
「プーチン、ごめんな」
きっと誰も、愛とは言わない。