前の続き。
(赤緑)←看守。
逃げ出された日に、思うこと。
本文は「続き」からどうぞ。
本当に伝えたい想いだけは うまく伝わらないようにできてた
そのもどかしさに抱かれぬよう せめて僕は笑ってみせた
隣が、五月蝿い。
背中つけた壁抜けて聞こえてくる嘲笑はひどく耳障りだ。神経を逆なでしてくる野卑な声に一言怒鳴ってやろうと口開け、
「―――ぃっ、つー……」
脳天からぶっとい針で串刺しにされたかのような、激痛。思わず顔顰めると益々針は増える。まさに顔面ハリネズミ。そんな状態では威勢のいいことなど言えず、ううともぐうともつかない小さな呻きもらすのが精一杯だった。
その無様な音聞こえたとでもいうのか、さらに囃し立ててくる連中―――うるせぇ、クズ。何が「ついにお仲間」だ。テメェら犯罪者と一緒にすんな。
しかし現在、カンシュコフがいるのは檻の中。この世で最も最低な、仕事で面倒見なくてはならない彼が唾棄してやまないクソでゴミでクズな罪人たちと同じ場所だった。
まさか、本当にこっち側へ入る日が来るなんてな―――
常日頃から扉一枚挟んだ囚人と自分、どちらが収容されているのか分からないと思っていたが。自虐でもなんでもなく、真実になった。
見上げる天井は電球一つなく、従って夜半の今視界は暗い。それがかえって助かった。錆びた配水管がむき出しの、くもの巣何重にも張った灰色の天井なんぞ見たくもない。
構造自体良く知っている房は大変狭く、腕を水平に伸ばしたら壁端へ両手ついてしまう。勿論そんな場所では足もろくに伸ばせず、ボロボロになった体を休ませることもできない。むき出しのコンクリートの上で膝抱える姿はさぞや惨めに違いない。
だとしても、今のカンシュコフにとっては自分の姿などどうでも良かった。
壁の向こうで囚人達が嘲っていようが、同僚達が呆れていようが、しこたま顔を殴った上で囚人用の懲罰房へ放り込んでくれた上司が怒り狂っていようが。どうでも、良い。
憤怒も悲哀も悔恨も自嘲も。感情と呼べるもの、全てが沸いてこない。捉える点などどこにもない、闇と同化した床を見つめるその脳裏で思うことは、ただ一つ。
どうして―――
おかしいだろ、と一番に思った。なんで、と。
ほんの数時間前、挨拶を交わしたばかりだった。
365日を掛ける事の3回、毎朝必ず寄越してきた、朝の挨拶。
こちらがどれだけ不機嫌な顔見せても返事を返してやらなくても毎度変わることのなかった、鬱陶しいくらいの笑顔と「おはようございます!」の一言―――そしてその後続けた、「お世話になりました」の、別れの挨拶。
最初の挨拶に比べると幾分表情と音量控えた模範囚の周りには複雑ともいえる空気が渦巻いていた。
漸く外へ戻れることに対する無類の喜悦と、仮住まいの場所後にする寂寥。
普通なら前者しか感じないだろうところ、出所する担当囚人の眉下げた顔見て、本当に変な奴だと思った。
まともに人間扱いされなかった、環境としてはこれより下は存在しない牢獄暮らしだったというのに何を寂しく思うのか。意思も自由も頑強な壁と共に封じられた、何もないこの場所のどこに思い残すことがあるのか。
無辜でありながら受けた3年間の罪科は、日向の下生きるのが当然の身にとって不幸でしかなかっただろうに。
「嫌なことばっかりじゃありませんでしたよ?」
「うそつけ」
「本当ですよぉー」
扉の向こう、「だって、色んな人と会えましたし」と続けた口元が、再び朗らかに綻んだ。
「カンシュコフさんとも」
思いがけず名前呼んだ、穏やかな響きと向けられる微笑に。一瞬胸の内掻き乱された気がして、覗き窓の目を慌てて外へと逸らした。
高々囚人相手に何をやってるんだ。そう自身を密かに罵ってみたが、その理由を本当のところは知っていた。
ここ数日、ずっと落ち着かなかった自身の気持ち。
今朝扉の前立つ瞬間まで感じていた、息苦しさ。
ともすれば重くなりがちだった足を引き摺って廊下を歩く、その短くも長い時間の間には、すでに。知っていたのだ。
だからそれをおくびにも出さず、「もう悪さはするなよ」と皮肉をくれてやって、手続きをするために扉の前を離れた。
それが。
鳴り響くサイレン―――耳劈く警報に混じって溢れる怒号、野次、銃声。
声潜るように駆けて戻ってみれば、もぬけの殻になった担当房の丁度中央部、分厚い壁にぶち抜かれた大きな穴。
唖然として見た塀の、さらに穴空いたその向こう。
なんで―――
疑問ぶつけたのは、飛来する銃弾の的となる車の、運転席へ座る方ではない。
縫合痕残る人相も含めて凶悪な、刑務所で極刑待つだけしか赦されていない赤髪の死刑囚へは目も行かなかった。
構えた銃の引き金ひくことも出来ず、硬直したままの視界の先。門ではない場所から出て行く、背丈低い後姿。
ちょんまげ頭庇いながら必死に走っているその体が振り返った瞬間―――確かに目が合った。
真ん丸に開かれている、あの緑の瞳と。
なんで、お前そこにいるんだよ。
問いかける言葉なく、呆けている目の前で、助手席埋めた車はあっという間に逃走していった。
それから後の事を、カンシュコフはあまり知らない。
事後対応に追われる同僚達を尻目に彼は一人、上司直々の懲罰を受けていたからだ。
担当囚人による脱獄を許したのだから叱責を受けるのは当然である。手続きで現場を離れていたからというあまっちょろい言い訳は通じはしない。
おまけに逃げた二人のうち、片方は今世紀始まって以来至上最悪ともいえる凶悪犯なのだから事態はさらに深刻―――つまり、顔赤くして激昂している上司は丸つぶれになった面目に大層お怒りだった。クソでゴミでクズな罪人預かる場所でも上に付けば辞めたいと思わないらしい。赤い顔色の裏側が青くなっているのだと思うとなんだか滑稽で、笑えた。ら、もう一発殴られた。
鏡をみてはいないが、中々酷い様相になっているはずだ。だが、それでもまだ温い。逃亡者である死刑囚の殴り方はもっと過激で、容赦なかった。
その度に、アイツは「大丈夫か」って聞いてきたんだよな―――大きな目を困ったように瞬かせて、扉の前でオロオロしてみせる風変わりな囚人。奇特ともいえるその姿も今や記憶の中残っているだけ。
どこへ行ったのか―――どこへ、行くのか。
逃げ出したのが本人の意思によるものかどうかも不明だ。出所日当日にわざわざ脱獄の罪被るなど、一体どんな馬鹿だ―――ただ仮にそうだとしても、指名手配書回ることは免れない。早晩民警の手によって縄打たれ、再びこの檻の中へと舞い戻ってくる。
陰気で日の当たらない、不似合いな場所へ戻ってきた、その時。果たして、あの笑顔は消えずにあるのか。
「…………」
嘆息一つ吐き出す。それだけだけで、ズキンと突き抜ける痛み走る。殴打によって切れた口内の傷も一向に塞がらず、舌上へとめどなく広がってくる血液の鉄臭い味が不快で唾と一緒に床へ吐き出した。
へばりついた血の色さえ見えない暗闇の中で、それでも瞼を下ろす気にはならない。どうせ今夜は眠れやしない。体の痛みと、その奥の軋み抱えて朝日が昇るのを只管待つだけ。
その後現れた日輪のように自分へ陽光が与えられるとは思っていない。
厳罰でも免職でも告げるが良い―――どうせこの生にだって、意味などない。
この上なくスペクタクルな一日は、カンシュコフへ人生の無味を悟らせるに十分だった。
長い夜を少しでも楽に過ごすべく、首を壁へと持たれかける。と、その拍子に唯一視界開かせる換気窓が目に入った。
四角く刳り貫かれた、鉄格子つきの窓の向こうに広がる闇夜。房の暗さと変わらない漆黒の中で、けれど白く浮く点がある。
あれは―――弱々しく、今にも闇に侵されてしまいそうなあの光は。星、か。
額のような、ほんの小さな枠の中に納まる粒はたった一つきり。鉄柵抜けた先では無限の輝きが広がっているなど、到底信じられない。夢や希望を託すにはあまりに儚い光彩。
この風景をずっと見ていながら、あの瞳は光失うことなかった。もう一度満天の空を仰ぐ日がくるのを疑いもせず、鮮烈なまでに煌く深緑の色で見てきた。
『どうして』の疑問は、消えない。
『なんで』の問いも、失せはしない。
それでも―――何処とは知れぬ場所へと向かった、彼の目にも。
「なぁ……プーチン、」
あの星は、見えているのだろうか。
忘れ得ぬ想い?それは恋だろうか。