続いていた嗚咽が弱まって、それでも離れない金髪頭を廊下の外へ投げ捨てたのは、もうすっかり朝食の生魚の表面が乾いた頃だった。
放り捨てた相手が派手な音を立てて転がっていくのを見送りもせず、キレネンコは扉を叩きつけるようにして閉める―――その頭には続いて脱走しようなどと考えは起きない。目の前にある監獄の扉は自由を阻む障壁ではなく、変態からぽけっとしている同室者保護するための防護壁だ。鍵がかかり、向こう側と此方側を繋がらせないのが正しい扉の在り方である。
自ら逗留を選択した、ある意味模範的囚人行動をとった彼は座ったままの同室者を振り返った。
抱きつかれた時に弾かれた姿勢で、ぽやんとプーチンは閉まった扉を見る。まるで厚い鉄板の向こうが見えているかのように一心に見続ける緑の瞳に、眉を寄せる。
明らかにむっとしているキレネンコの空気が伝わったのか、漸く赤い瞳へと視点を合わせた彼は曖昧な笑みを浮かべた。
「カンシュコフさん、なんだか大変だったみたいですねぇ……」
自分の囚人服をべしゃべしゃにしていった―――それが涙なのか鼻水なのか気にしないところが、プーチンの美点だ―――相手を扉の向こうへ思い描きながら、呟くプーチンに。キレネンコは、口を一文字に引き結んだまま、ダンッ!と靴音を鳴らして近づいた。
響く音にプーチンが身を竦ませるより早く、体が引っ張り起こされる。無理矢理立たした体をキレネンコはバシバシ払いながら―――まるで汚れを払い落とすように、カンシュコフの触れていた部位全てを拭うと、ぼふりっと小さな体躯を抱き締めた。
自分の腕にすっぽりと収まってしまう相手の肩口に顔を埋める。が、鼻先を掠める部位にまだ違う男の臭いが染み付いているような気がして、不機嫌な顔が一層不機嫌になった。
―――抹殺、決定。
とりあえず首をもぐのと内臓全部取り出すの、どちらがより苦痛を与えられるか算段する。出来るだけえげつない殺し方が良いだろう―――先程のようにわんわんと泣くような、殺り方が。
いつになく空恐ろしい夢想を馳せ、同時に同じ事を行おうにも行えない、行為を許していた相手へ彼は怒りの問いかけをした。
「…………何で、抱きつかせてた」
無理矢理、襲ってきた相手に。自分の、目の前で。自分が離そうとするのを、止めてまで。
頭まで撫でて抱き締め返してやるなんて。
それを見せ付けるなんて一体、どんなプレイだ。
思い出すだけで怒りで気も狂いそうなキレネンコの、低く声を抑えた糾弾に、腕の中でプーチンが申し訳なさそうに眉を下げた。
「だって、カンシュコフさん、泣いていたから……」
もごりと言われた言い訳に、何だその理由はと赤い瞳が睨む。
―――泣いていたら、誰でも抱きつかせるのか。
尋ねたら「はい」に近い答えが返ってきそうだったのでそこはあえて追究しないまま、キレネンコは抱き締める腕を強める。先程まで抱きついていた男より、強くその身へ自身が染み渡るように。
怒ってはいる。責めて追い詰めて、その身に触れる事を許して良いのが誰なのかを、とことんまで教えてやりたいと思う。
けれど同時に、普段のおっとりした物腰からは考えられないような強い意志を目に宿して自分を制した相手が一歩も引かないのは解っている。そうでなければ、あの時―――自分も蹴り飛ばされてしまうかもしれないというのに、カンシュコフを庇ったりしないはずだ。
力で捻じ伏せるのは簡単だし、「もう二度としない」と約束を取り付けるまで対決も辞さない気構えは、ある。
ただ―――それをする事によって恐らく自身が得る利益は、ない。
心に芯一本を通した、凛とした瞳を曲げることなど、出来はしない。
男の癖にやたらと母性溢れた相手へ、結局。折れるのは、自分だ。
怒りの矛先はあの憎たらしい看守に向けるしかない。ジレンマに歯噛みしつつも押し黙るキレネンコを、ぽふぽふと小さな手が撫でた。
「大丈夫ですよ、キレネンコさん」
「……………」
一体何が大丈夫なのか。根拠なく断言する相手へ思うものの、金髪には降らなかった口づけを赤髪へ受けたキレネンコは、慈愛満ちた眼差しを前にして言えない文句の数々に肩を落とすしかなかった。
―――これが夢なら、良いのに。
***蛇足***
もう二人とも別人だ……
更に夢オチをひっくり返してそっち方向へ持って行こうとするのを軌道修正するので精一杯でした。
↓結局軌道修正出来なかった結果。(苦手な方は反転解いて下さい)
「大丈夫ですよ、キレネンコさん」
「……………」
一体何が大丈夫なのか。根拠なく断言する相手の―――ゴホリと漏れた咳を、赤髪に受けた彼は。
歪めた瞳を見せないまま、唯、唯。腕の中儚く微笑む、やつれた体を抱き締めた。
夢から醒めたその先が、夢ではないと―――誰が、言った?