残骸ですが、未練がましく投下。こっちもこっちでずっと何も上げてない……orz
赤×緑
食欲の秋。食欲のボス。
本文は『続き』からどうぞ。
『買い物に行ってきます。おやつに食べてください。』
「…………」
書置きに目にして若干眉が寄ったのは、単にキレネンコの予想が空振りに終わったからに過ぎない。
期待していた同居人の声がなく、簡素な紙切れ一枚で片付けられたことに対する些細な不満。望みと異なる結果が気に入らないのは誰でもある話だ。置いてけぼりを食らったことに、本気で怒っているわけではない。
さて。キレネンコは考え切り替え、改めてテーブルに向き合う。
目の前には、大皿へ乗った丸いパイ。推測するにアップルパイに違いない。秋といえばリンゴ―――と、同居人が言っていた。適度な甘みと酸味がある赤い実は、キレネンコも嫌いでない。
作ったばかりらしいパイはまだ白い湯気が昇っていて、嗅覚を甘く誘惑する。リンゴと、砂糖と、バターと、他何か。女が撒き散らす馥郁とした香水よりも、こちらの方が指動かす力は強い。
サッとキレネンコは時計を確認する―――時刻は三時前。が、『食べてください』とあるのだから、食べてよし。
よし。元より止めるつもりのなかった手を切れ込み入ったパイへ伸ばす。フォークや取り皿は見当たらないので省く。指が汚れることなど、獲物を前にすれば瑣事だ。
摘み上げた一切れを口に押し込む。躊躇は無い。躊躇う必要もない。無言で顎動かした彼は、頷いた―――美味い。
軽い触感残して砕けるパイ生地は焼き立てなのもあってか香ばしく、濃厚なバターの風味が口一杯に広がってくる。
そしてその下、主役ともいえるフィリングのリンゴ煮。シナモンきかせたそれも、大変良い出来である。
いかにも手作りといった感じの、ごろり大振りなリンゴを思い切って噛み砕くと、果実本来の持つ酸味と歯ざわりが堪能できる。あふれ出てくる果汁を受けてサクサクだった生地がしっとりと混じり合っていくのもまた美味だ。
作り手の好みか、全体的な味としては少し甘めかもしれない。しかし甘党のキレネンコにとってはむしろ歓迎すべきことである。嚥下する瞬間まで味わい深い糧食に文句連ねる道理はない。
美味いものは、美味い。それ以外言いようがない。
秀逸の逸品へひとしきり賛辞送り、次の一切れを掴む。零れ落ちそうになるリンゴを先に一口、それから可能なまで大きく口開けてパイへ齧りつく。サクリ歯を受け止める塊、トロリ舌上に流れる蜜の甘さ。実に絶妙。正に極上。これならいくらでも食べられる。
頬張るたび、訪れる至福―――眉間に浮かんでいたはずの皺は、いつの間にか消えていた。
しかし不思議なものだ、とキレネンコは思う。頬袋に詰め込んだ物体のこの美味さは、一体どこから来るのだろう。飾り気も何もない、純朴な菓子だというのに。
材料にそれほどのこだわりがあるわけでもないはず。強いてあげれば使っているリンゴの鮮度が良いくらいか。旬の、真っ赤な色艶の良い実を使えば少しは味に影響あるだろうが、果たしてそれだけだろうか。
答え探るよう、二個三個とさらに口へ運ぶ。やはり、美味い。キレネンコが探究心を丸めて遥か彼方へ放り捨てるまで、それからコンマ二秒も要さなかった。
指伸ばし、運び、咀嚼し、飲み込む。無駄な動きは最小に、ぱくぱくと無言で、無心に、ひたすら食べる。
食せばそれだけ胃袋が膨らむはずなのだが、体内が満ちていく気配はない。欲求自体も同様。美味いな、と思うほどに食指が伸びる。
最近とみにこういう傾向が強いことはキレネンコ自身自覚がある―――秋だからか。「秋は食が進みますよね!」と、これも同居人の言である。実際来る冬眠に備え、実りの秋になると動物の食欲は増すのだから間違いともいえまい。
別に雪埋もれる季節来ても眠ることのない、春も夏も冬も関係なしにハングリーであるキレネンコの、パイと口元を切れることなく往復していた手が。唐突に、止まった。
何気なく赤い瞳が焦点結んだ先、映る丸い皿。その縁沿うように円描いていたパイの外周が、殆ど消えている。
もっと適切に表現するなら、一欠けら。何等分かされていたうちの、一切れしか残っていない。
「…………」
ぺろり指を舐め、キレネンコは考えた。これは、どうすべきか。
浮かぶのは作り手であり同居人であり現在留守中の恋人の顔―――基本、おやつは折半だ。だが、書置きには『食べてください』とある。何をどこまでどれだけでしか食べてはいけないかは、書いていない。
皿の上の一切れ。あれもきっと、美味いに違いない。食通で通った舌を唸らせるパイを、無視していいものなのか。表面に塗られたジャムが艶々と光る。そして立ち昇るリンゴの熱く、甘い香り。キレネンコにはそれらが飢えた己を誘うパイの意思表示に感じて他ならない。「早く、私を食べて」と囁く濡れた声まで聞こえてくる。ここで手を引くのは男として、いや人として間違っている。
―――たかだか一切れ、残してもしょうがない。
キレネンコは心を決めた。据え膳になっているパイへ鋭い視線くれる。
後悔など、あろうはずもない。
プーチンが苦労しながら玄関の扉開けたのは、三時を示した時計の短針へ長針が重なる頃だった。
家の中は静かだ。が、これはいつものこと。本当を言えば無口な留守番相手の元へ一番に「ただいま!」と駆け寄りたいのだが、とりあえず台所目指す。袋の底が抜けそうなほどの荷物を、まず下ろさねば。
よたよたとしながら入って直ぐの床へ買ってきた物を投げると、プーチンはホッと息をついた。漸く開放された腕が痺れている。よくここまで無事に帰れたものだとつい自画自賛した。
少し、買い込みすぎたかも。
パンパンに膨らんだ袋は当初の予定ではもう少し小さく、且つ少なかった。だから一人で出かけたのだが。店先を回るうち、だんだんあれもこれもと手を出してしまうのはプーチンの悪い癖でもある。
見事に食料品ばかりの袋を見下ろし、彼はまぁいっかと得心した。腐らせるわけでもないし。秋はともかく何を食べても美味しい―――皿にこんもり盛った料理を食べる自分と、それ以上の量を渡した皿を綺麗にして無言で突き出す同居人にかかればこんな量なんてことない。
早速今晩は何を作ろうか。鼻歌交じりに考えつつ、くるりテーブルに向き合う。
まずは夕飯までの間繋ぎ、おやつのアップルパイを食べよう。そう思ったからだ。
出来上がったときは、我ながら良い仕上がりだと思った。パイは焦げることなくさっくりと焼け、折り重なった層の隙間がはっきり見える。そして間に挟んだリンゴは旬なだけあって生で食べても十分甘いものを贅沢に何個も使っている。ちゃんと触感残るよう煮込み具合に気をつけたのも功を奏しているはず。
オーブンから出した瞬間真っ先に食べてしまいたい衝動駆られたのだが、いやいやとプーチンは首を振った。
おやつは三時に食べるもの。それに同居人と一緒でなくては。作ったからといって、抜け駆けはいけない。
なので纏わりつく誘惑振り払うよう、買い物へ出た。仮に長引いた時のことを考え、遅くなったら先にどうぞとの意味合い込めた書置き残して。
少し時間回ってしまったが、まだ十分おやつの時間内である。間に合った。
ではポットを温め、お茶を用意し、フォークとお皿を出して彼の居るだろうリビングへ運ぼう―――早速二人分のパイの取り分けから始めようとしたプーチンの動きが、ぴたり止まる。
―――ない。
いや、正確にはある。ないことはなくある、けどない。
一体どっちなんだ、という状況を見つめる、緑の瞳へ映った大皿。パイが丁度邪魔するような形で覆っていたその皿の柄が、見えている。つるりとした陶器の上にはパイ屑も散っておらず、いっそ清清しいほど綺麗だ。
つまりは、ない。出かける前は円で乗っていたアップルパイが、ない。
ただ、皿の一角。あらかじめ切れ込み入れておいた円の、一部分。そこだけ、ある。
ぽつねんと残された一切れ―――他の集団から取り残されたそれはまるで「お前は不味い」と告げられてしまっているかのよう。広い皿の上で寒々しく縮こまっている。
元々は一つの塊なのだから、そんなはずはない。他のパイが美味しくて―――それこそ、リンゴの欠片すら残さず食べるほど美味しくて―――消えたのに、その一切れだけ外すとは不可解だ。
なら、単純に容量の問題か。腹一杯になったから一切れだけ残ったということか。妥当ともいえる自身の推理をちょっと違う気がするな、とプーチンは否定した。
彼は、良く食べる。聞こえは悪いが要は食べ残さないという意味だ。味が気に入ったものなら尚更である。
瞬く目へと映る、はみ出しものの一切れ。
この一ピースが示す意味とは―――
「キレネンコさん、ただいま」
キュッキュッと音がしそうなほど熱心に靴を磨いていたキレネンコは、一度作業の手を止めた。すっと眇めた瞳の前、手を掲げる―――磨きこんだスニーカーは綺麗好きの彼の目から見ても合格レベルである。
それはそうだ、かれこれ一時間近く費やしている。普段の時間の、軽く倍。
リビドー抑制するには、それを上回る欲動を。自分を熟知している彼は台所から出るなり趣味に没頭した。別の物へ心動かすことがないよう、ひたすら手を動かしていた。
成果顕れて輝き放つ愛好品に魅入っていた目が、ゆっくりと外される。
無我の極致から帰還させた声。聞けなかったときは機嫌損ねた声音が名前を呼んだ瞬間、キレネンコの脳裏には何パターンかの返事が浮かんだ。
美味かった、か、今度から幾つまで取り分か書いておけ、か、秋だから、か。
適切な一言模索する間に顔は相手へと向いてしまう。結局、最終的にキレネンコが選んだのは、無言だった。
おかえりすら言われなかったというのにプーチンは怒らない。柔らかく笑んだ彼は手にしたお盆示して尋ねた。
「おやつにしませんか?」
「…………」
一瞬、遠まわしに責められているのかと思った。もしくは、新手の嫌味。冗句の可能性もある。
しかし、それら湧いた憶測が全て外れであり、同時に自身が柄にもなく後ろめたさを感じていたことをキレネンコは目の前に広げられていく品々を見て漸く気が付いた。
広げられる二枚のナプキン、湯気を立てる二人分のカップ、曇りのない二本のフォークに、それから―――
コトリ、自分の側へ置かれた小さな皿の上。乗っているアップルパイは、最後に見た大きさよりもっとサイズを縮小している。
僅か瞠目している赤い瞳に、置いた皿の横へもう一つ同じものを並べながら「きっとね、」とプーチンが笑う。
サクサクの生地のサクが減って、大きかったリンゴは細切れになって、食欲を満たすだけの大きさでなくなった一切れにも満たないパイであったとしても。きっと。
「一緒に食べると、もっと美味しいですよ」
隣に座った同居人のその言葉がやはり的得ていることを、キレネンコは自身の舌で知るのである。
―――
最近どんどんボスがヘタレに、そして偽者になる……欝。